フラットを探して

双極性障害で療養中の記録

混合状態の入院騒動からうつ転した話

こんにちは。

昨夜から今日にかけて気圧の低下とともに気分が落ち込んでいます。おまけにジリジリと食欲が湧いてきて嫌な流れです。

 

さて、今日はちょうど2年前のうつ転した頃の話をしようと思います。

2015年は今思えばラピッドサイクルの時期で、2,3ヶ月の間に躁とうつを繰り返すような生活をしていました。色んなことを始めて、失敗しての連続で、どんどん体が動かなくなり、自信もすり減っていきました。

2016年を迎えた頃には、躁に持ち上げる力も底をついていました。躁の時に思い描いていたハードルを下げ、「規則正しい生活をしよう」という、全うな目標のもと数ヶ月を過ごしました。おかげで体調も回復してきましたが、するとまた「何かしなきゃ」という焦りが出始め、その反動で5月になると大きく体調を崩すことになりました。「規則正しい生活をしよう」という最低限の目標さえも叶わず、発病してから1年半の間にどんどんとすり切れてきた自分の中の命綱が限界に達しつつありました。そんな生活を1ヶ月続け、きっかけは忘れてしまいましたが、6月になるとついに糸が切れてしまいました。自分で自分をコントロールできず、死にたい気持ちが溢れてしまいました。自分でも家族でも手に負えず、入院を決めました。

 

私が通院していた病院は入院する施設がなかったので、別の病院に行くことになりました。以前から「もしものときはこの病院に入院しましょう」という話は出ていましたが、当時はかなり切羽詰まった状態でしたので、紹介状も緊急で取り寄せたり、入院する病院でもドタバタと部屋を準備してくれたようでした。

満身創痍で病院に行くと「絶対に自殺はしないで下さい」と念を押され、一気に死ぬことが現実味を帯びてきて、とても怖かった記憶があります。さらにその病院は保護入院しか認められず、すぐ入院すること、そして1ヶ月は外出が出来なくなると言われました。

 

入院するという話になった時からひとつ気にかけていたのは、数日後に行く予定だったフランス映画祭のことでした。こんな状況で行ける訳ないのは当然なのですが、私が心酔しているフランスの大女優、イザベル・ユペールがこの映画祭のために来日することになっていたのです。トークショーやサイン会なども予定されていて、何ヶ月も前からチケットを取り高倍率のサイン会にも当選して、この日を糧にずっと過ごしていました。人生で彼女に会えることなんてもうないでしょうし、ましてサインなんて、仮に私が今後カンヌやベルリンやヴェネチアに行ったとしても、レッドカーペットを歩く彼女からサインを貰える確率なんてほぼ皆無です。そんな彼女に一目会いたいという思いが心の中にありました。

 

「自殺するなよ」という念押しだけでもビビっていた私ですが、その後に病室を案内されて更に怖くなってしまいました。満室だったのに緊急で用意してくれた部屋は、明らかに悪い部屋でした。病院自体は建て直しされていてガラス張りで開放感もあり、日当り良好でしたが、私が案内された部屋は薄暗く、むき出しのトイレに、体を拘束するためのベルトがついたストレッチャーのようなベッドがぽつんとあるだけの部屋でした。ベッドは違うものを用意すると言われましたが、重度の患者を保護するための部屋であったと想像するに難くありませんでした。むきだしのトイレというディティールも相当ショックで、入院したいという気持ちはもはやなくなっていました。一緒に案内された家族も同じことを思ったらしく、結局、入院することを断念してしまいました。

 

精根使い果たし、それからは引きこもるようになりました。そしてその数日後、私は這うようにして映画祭に出掛けました。正直、外出出来る体ではありませんでしたが銀幕のスターに会いたい一心で朝日ホールへ向かいました。ほぼ銀座に、近所のコンビニに行くような格好で行ってきました・・・。よりによって難しい映画だったので内容は全く頭に入ってきませんでしたし、じっと椅子に座っていることさえも厳しかったです。トークショーもほとんど忘れてしまいましたが、それでも彼女の美しさや聡明さやポリシーのようなものが伝わってきてとても素晴らしかったです。その後のサイン会では、ボロボロの格好で彼女の前に現れてしまったものの、カタコトで少しだけ会話をさせてもらいました。

 

その後も帰宅がまた大変で、都心のど真ん中で歩けなくなってしまい、見かねた道沿いのレストランのウエイターが椅子を持ってきてくれる始末でした。自宅に戻ると倒れるような有様で、また引きこもり、完全なうつ状態になりました。閉店ガラガラです。それから2年近くうつが続いて今年の4月にようやくうつ抜けし、現在に至ります。

 

入院騒動のときにちゃんと入院していたら、どうなっていたのでしょう。こんな長いうつにならなかったのかもしれませんし、逆に退院した後に混合状態がさらに続いていたかもしれません。それでも彼女のサインを見返す度に、自分の選択は当時の最善であったと思っています。