フラットを探して

双極性障害で療養中の記録

生きづらい人たち〜新幹線殺傷事件から

こんにちは。

ここしばらく体調の良い日が続いています。体調が良いと気圧の変化も受けにくいようで、梅雨入りしてからも滅入ることなく過ごせています。またネットへの依存も減ることから、ブログを書く頻度も少なくなってしまいました。

ここ数日のあらましとしましては、絶賛寝違え中で、首を横に動かすこともできない日々が続いています。今年に入ってから2度目の寝違えで、寝具が合っていないのか、もしくはおなじみの自律神経の乱れか・・・。ストレートネックでもあるので、睡眠不足に悩んでいた時にバスタオル枕に変えてみたのですが、タオルの高さが合っていなかったのかもしれません。それにしても寝違えるとかぎっくり腰とか、ネーミングの間抜けさに反して症状はかなりつらいですね・・・。しばらくは痛みが続きそうです。

 

そして体調が安定していると日々の生活にマンネリを感じやすくなるようです。以前医師には「楽しいことをしすぎてもいけないが、生活に刺激がなさすぎるのもよくない」と言われたことがあります。無茶言うなよと思いましたが、確かに無刺激すぎるとその反動で一気に躁に傾いてしまうことがあったので、定期的に低刺激は与えた方が良いのだと思います。

そこで先日から日々の運動を見直すことにしました。今までは筋トレ+有酸素運動でしたが、筋トレの強度を強めるかわりに、筋トレ+有酸素運動の日と有酸素運動のみの日を交互にするようにしました。筋肉肥大に効果が出ることを期待して、無理のない範囲で続けていきたいです。

 

さて、ようやく本題ですが、今世間を賑わせている新幹線無差別殺傷事件についてです。密室の空間でいきなり犯行に及ばれたらどれほどの恐怖なのでしょう。PTSDなどに苦しめられる方も出てきてしまうのでは思います。凄惨な事件であったことは言うまでもありませんが、私はどうしても容疑者の生い立ちや人物像に目がいってしまいます。

 

精神的な問題があったようですが、報道などから、彼がいかに生きづらさを感じていたか、ひしひしと伝わってきます。そしてそれはとてもひと事のようには思えませんでした。ワイドショーのコメンテーターたちは、彼の家庭環境などについて、同情のようなものを示しますが、「だからといって人を襲っていい理由にはならない」とジャンプして正論をぶつけます。新幹線の防犯の改善は訴えても、彼のような生きづらさを抱えた人々の生活の改善は置き去りにされ、自分とは違う「やばい奴」として、不可避な災害のように対策を立てようとします。

 

それを見て私は生きづらさを感じる一人として、置いてけぼりをくらったような、何とも言えない気分になりました。世間的にみれば彼が家出をしたことなどは異常な行動なのかもしれませんが、これは一種の生きづらさに対するもがきのように思えてなりません。自分から精神病院に入院したいと思うこともおかしなことではありません。哲学書を読むこともおかしなことではありません。資格を取ろうとして、自分の仕事を見つけようとしたり、独り立ちしようと思ったり、懸命になっても、それでもうまくいかない、理解されない・・・報道を見ていて辛くなりました。それでも一部の人は「勝手に自殺しろ」と言います。どうして犯行に及んだのかは知る由もありませんが、自分の居場所を見つけられなかった彼は、罪を犯すことで自分の存在を知らせたかったのかもしれません。

 

ではどうすれば、彼は、そして私たちは自分の居場所を見つけられるのでしょう。もちろん家族などの周りの人々のサポートがあればそれにこしたことはありませんが、正しい対処を知っている訳でもありませんし、本人と近い存在過ぎて逆に弊害になってしまう場合もあります。あるいは、生きづらさを感じる人の中には家族との関係が良くない人も少なからずいるかもしれません。まずは支援機関であったり自助グループであったり、自分のつらさに理解のある人々の存在を知るだけでも孤立することが防げるのではないでしょうか。こうした存在が社会でも周知され、サポートが充実していけば良いなと思います。当たり前に生きられない人が割といるということがわかれば、その当たり前の前提が変わっていくそんな世の中になることを願っています。